崖県

       

 1939年に日本軍が侵入したとき、海南島南部で最大の都市は崖城であった。 はじめ日本軍は、ここに軍司令部を置き、数年後に三亜に移した。
 司令部の近くに、病院、薬屋、「慰安所」があった。   

日本軍司令部があった場所。樹は当時からあった いまは、三亜市崖城小学校になっている
日本軍が奪って「慰安所」とした家
当時の井戸
趙述顔さん
 「この建物は1934年に、父親が建てたものだ。その5年後に日本軍がきて、奪った。父親は逃げたが、3日後に殺された。そのあと、‘慰安所’にされた。建物は、ほとんど昔のままだ。  当時は、ここに近づくのが怖かったので、女性が何人入れられていたかなどは、知らない」。
趙述顔さん(1931年生)
 
「慰安所」があった街路
朝鮮人女性がふたりいたという「慰安所」にされた建物
朝鮮人女性がいたという建物の前に立つケ朝安さん(1927年生)
華南庄の一部が残っている
ケ朝安さん
  「‘慰安所’で下働きをしていたことがある。華南庄だ。
 華南庄には、日本人女性が6人いた。老板(経営者)は、日本人夫婦だった。そこから20メートルほど離れたところにも‘慰安所’があった。 その建物は当時のまま残っている。
 そこには朝鮮人女性が2人いた。いっしょに食事したことがある。そのとき、自分たちは朝鮮人だと言った。
 華南庄には将校、朝鮮人の所には普通の日本兵や台湾兵が来た。
 食料を受け取りに三亜にある‘慰安所’にときどき行った。そこは、‘三亜荘’といった」。
       
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